「豪、帰れ!」 焦るように広樹が言った。このタイミングは最悪である。 それに反し、内山は聞く耳を持たず、仕切りの中へと入ってきた。鷹緒は内山を見つめたまま、何もしゃべらない。 「ひどいな、ヒロさん。ヒロさんが怒鳴るなんて、珍しいや……それより、少しやつれたんじゃないですか? 先輩」 不敵な笑みを浮かべながら、内山が鷹緒を見て言った。 「おまえ……」 そう言って逆上しそうな広樹の腕を掴み、無言のまま鷹緒が止める。 「鷹緒……」 「……理恵は、おまえのところにいるのか?」 冷静さを装って、鷹緒が尋ねた。内山は頷き、微笑む。 「ええ、いますよ。今日は家で休んでます。このところ、さすがに塞ぎ込んでいて……」 「豪。理恵と離婚して欲しいなら、離婚届を書かせて送ってくれ」 鷹緒の言葉に、内山の目が丸くなった。 「……離婚……するつもりなんですか?」 「さあ……ただ、あいつとおまえがそう決めるんなら、送れって言ってるんだ」 さっきまでの態度とは打って変わって、内山は明らかに動揺している。 「なんなんですか、それ……大人を装ってるんですか? 僕は、あなたから理恵を……」 「おまえこそ、なに言ってんだ? おまえがやったことだろう?」 内山がどうして動揺しているのか、鷹緒にはわからなかった。ただ内山は固まって、一点を見つめたままでいる。 「僕は先輩に憧れてて、それで……」 「……だから理恵を利用したのか? そんなんなら許さねえぞ」 急に、鷹緒の目つきが変わる。内山は、そんな鷹緒に首を振った。離婚という言葉を聞いて、動揺を続けている 「違う。理恵のことは好きだけど、先輩にも憧れてて……」 「……豪。おまえが理恵を好きで、理恵がおまえを好きなら、もうしょうがないじゃん。俺のが邪魔者だろ? まあとにかく理恵と話し合って、今後を決めろよ……俺は仕事も忙しくなってきてるし、二人が決めたら、従うよ……」 鷹緒はそう言って、立ち上がった。 「ヒロ。出よう」 「あ、ああ……」 放心する内山を残して、二人は店を後にした。 内山は動揺していた。鷹緒が理恵と離婚することなど、考えてもいなかった。ただ、理恵が好きだった。尊敬する鷹緒の恋人を、奪ってみたいという気持ちもある。鷹緒を負かしてやりたいという気持ちもある。 内山は、しばらくその場に立ちつくしていた。
数週間後。鷹緒は元いたモデル事務所を辞め、正式にカメラマンとして、広樹の経営する事務所へと入った。 理恵や豪とは、あれからまったく連絡がなく、会うこともない。そのため、まだ離婚はしてないので、形としては別居ということになっている。理恵の部屋は前と変わらずあったが、理恵が戻ってくることはなかった。
「鷹緒さーん!」 出先から事務所に戻るなり、鷹緒に声をかけたのは、元気印の三崎茜。十八歳のカメラマン志望の少女だ。彼女の父は、鷹緒がカメラマンとして世話になった師匠のような人物で、鷹緒をこの世界に引き込んだ人でもある。茜は最近この事務所で、事務やアシスタントのアルバイトを始めていた。 「お帰りなさい、鷹緒さん。ねえ、これからデートしよ。スウィーツがすごく美味しい店発見したんだ。甘党の鷹緒さんなら、絶対気に入るから!」 「ハイハイ、今度な」 軽くあしらって、鷹緒が言う。 「なによ。私は三崎晴男の娘だぞ。ないがしろにしたら、パパが許さないんだから」 「確かに、親父さんには世話になってるけど、それとこれとは別」 「そんなこと言わないでさ、私とつき合おうよ」 「気が向いたらな」 それは日々繰り返される、明るい事務所の幕閉めであった。 「やれやれ。今日もフラれたね、茜ちゃん」 苦笑して、広樹が言う。 「いいんです。諦めないもん。鷹緒さん、格好良いから……結婚してたってどうだって、関係ないです」 茜が言った。茜は鷹緒が結婚していることを知っている、数少ない人物である。鷹緒と広樹が高校生の時代から知っており、理恵とも面識がある。 傷心の鷹緒が仕事以外に救われたのは、茜の存在があったからかもしれない。事務所に居る時、鷹緒は嫌なことを忘れられた。自分を慕ってついてくる茜は、いい気の紛らわしとなっていた。茜もそれを知ってか、猛アタックを続ける。二人の会話は漫才のようにリズミカルに進み、事務所はいつも明るかった。
ある日、鷹緒がスタジオで仕事をしていると、茜がやってきた。 「やっぱりまだいたんだ。これ、差し入れです」 茜が缶コーヒーを見せて言う。 ちょうど仕事が一段落していた鷹緒は、伸びをしてコーヒーを受け取った。 「おう、サンキュー」 「……ねえ。まだ理恵さんから連絡ないの?」 茜が尋ねた。 「なんだよ、急に……」 「だって……もう一ヶ月以上経つんでしょ? 私から連絡しようか。理恵さんとは、知らない仲じゃないんだし……」 「馬鹿だな。変な気を使うなよ」 鷹緒が苦笑して言う。そんな鷹緒に、茜は口を尖らせる。 「子供扱いしないでください」 「だって子供じゃん。おまえ、俺と初めて会った時、まだ中学生だったんだぜ?」 「それはそうだけど……」 「おまえの親父さん、今、ニューヨークだっけ? 向こうの専属カメラマンになってから、ずいぶん経つんじゃない?」 話題を変えて、鷹緒が言った。 「うん。順調みたいよ……娘のことなんか、構ってられないって感じ」 「……寂しいの?」 「ちょっとね」 「……わかるよ」 二人は苦笑した。 「ねえ、鷹緒さん。どうやったら、私とつき合ってくれる?」 突然、茜が尋ねた。それを聞いて、鷹緒は静かに笑う。 「……やめとけよ、こんな男」 「どうして? 鷹緒さん、格好良いよ?」 「格好良くても悪くても、駄目なもんは駄目。俺はまだ事実上結婚してるし、当分恋人も作る気なんてないの。面倒くさいんだよ、そういうの」 うんざりした様子で、鷹緒が言う。めげずに茜は続ける。 「じゃあ、とりあえず離婚してよ」 「あのなあ……」 そう言う鷹緒に、茜は熱い視線を送っている。鷹緒は苦笑した。 「……わかった。じゃあ、おまえが今の俺の年くらいになったら、考えてやる」 「わかった。それまで待つ! だから鷹緒さんも、それまで浮気しないでよ?」 「そうだな……考えるだけは考えるよ」 苦笑して頷く鷹緒に、携帯電話が鳴った。鷹緒は反射的に、電話に出る。 「はい」 『……鷹緒?』 その声は、紛れもなく理恵だった。 「……理恵?」 『うん……ごめんね、連絡もしないで……』 久々の理恵の声に驚きながらも、鷹緒は安心感を覚えていた。 「いや……どうした?」 『……あの……』 「うん?」 『ごめん。なんでもないの……』 理恵の声とともに、車が通り過ぎる音が聞こえる。 「……外なのか? どうした? なんでもないってことはないだろう」 いつもと違う様子の理恵に、鷹緒は胸騒ぎを覚えた。 「理恵?」 『……』 「理恵。そっちに行くから、場所教えろ!」 もはや居ても立ってもいられず、鷹緒が言った。 『平気……本当に、なんでもないの。ごめんね……』 そこで、電話が切れた。 鷹緒は舌打ちをして、理恵に電話をかけ直す。しかし、すでに電源が切られているようで、通じない。 慌てて財布をズボンのポケットにねじ込むと、鷹緒は上着を羽織った。そんな鷹緒に、茜が口を開く。 「理恵さん、どうかしたんですか?」 「……ちょっと出かける。おまえももう帰れよ」 そのまま茜を置いて、鷹緒は街へと飛び出していった。
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