「鷹緒!」 早足で歩く鷹緒を、追いかけながら広樹が言う。だが鷹緒は、無言のまま歩いていく。 「鷹緒、待てよ。何があったっていうんだ?」 「……あいつら、つき合ってるんだとさ」 険しい表情で、苦笑しながら鷹緒が言った。その言葉に驚き、広樹は一瞬、言葉を失った。 「まさか、そんなこと……」 「……飯、食いに行こうぜ」 二人は、近くの料理屋へと入っていった。
「……確かなのか?」 料理を口にしながら、広樹が尋ねる。聞きにくい状況でありながらも、放ってはおけない。 鷹緒はうつろな表情をしながら、重い口を開いた。 「……考えてみると、思い当たる節がいくつもある。最近あいつ、仕事と言っては遅くなってたし……」 「でも……」 「……もういいんだ。しょせん俺たちは、水と油。こうなる運命だって、俺たちが結婚した時から、おまえら言ってたじゃん」 苦笑しながら、鷹緒が言う。 「それは、冗談でだよ。本気で言うはずが……」 「……もういいんだ」 「いいって、おまえ……」 「いいんだ……それより、飲もうぜ」 日本酒を注ぎながら、鷹緒が言った。広樹もそれ以上、何も言えなかった。
夜中十二時をとっくに回って、鷹緒は自宅マンションへと帰っていった。しかし、部屋に人の気配はない。ふと見ると、リビングから繋がった隣の部屋の明かりが漏れているのが見える。 同じマンションに二部屋持つ夫婦は、互いに家を持っている感覚で、プライベートも別々である。それは、互いの生活リズムがあまりにも違うということからだったが、今となっては空しさだけが残っていた。 一方、理恵もリビングにいながら、鷹緒が帰ってきたことを悟っていた。しかし、今は合わせる顔がない。話はしたかったが、何を言ったらいいのかわからない。 二人は互いの気配を感じながらも、今日は顔を合わせることはなかった。
次の日。鷹緒は朝早くから仕事に出かけた。理恵と内山のことが気になって仕方がないが、今は忘れようと思う。先のことは、まったく考えられなかった。
その日も遅くに帰ってきた鷹緒の部屋に、今日は理恵が待っていた。 「おかえりなさい……」 少し怯えた様子で、理恵が出迎える。 「……ああ」 返事をするものの、鷹緒は理恵を見ようとはしない。 「あの……話があるの」 「悪いけど、明日から出張なんだ」 顔を背けたまま、鷹緒が答える。 「時間は取らせない……だけど、話しておきたいの」 「なにを? 言い訳なら聞きたくない」 「言い訳じゃないわ」 「じゃあなんだよ。俺を説得するつもりか。別れ話か? もうどうでもいいんだよ、おまえのことなんか」 鷹緒の言葉に、理恵が深く傷ついた顔をする。しかし、理恵はすぐに口を開いた。 「言い訳なんかしない……鷹緒に何を言われたって、私が傷つく権利なんかない……」 そう言いながらも悲しさに震える理恵は、必死に涙を堪えているように見えた。 鷹緒は小さく溜息をつくと、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、ソファに座った。理恵はその前に座る。 「……私が全部悪いの……だけど、わかって。私、鷹緒が嫌いなんじゃない」 理恵が言った。鷹緒は俯く理恵を見つめ、静かに口を開く。 「……でも、豪が言ってたことは、本当なんだろう?」 「……うん」 「三ヶ月前からって言ったな……それから今日までずっと、俺に隠れて会ってたことは事実なんだろ?」 「……う……ん」 自分のしたことに後悔し、理恵は涙を流していた。鷹緒はきつく拳を握ったまま、冷静を保とうとしている。 「……きっかけは?」 「……三ヶ月前のショーの時……豪と一緒にモデルやってて、打ち上げに行ったの。鷹緒も仕事で遅くなるからって、はしゃいでた……鷹緒、もうずっと忙しくて、最近寂しいって。豪にそれを打ち明けた……豪、親身になって聞いてくれて……」 「だから浮気したのか?」 ズバリと言う鷹緒に、理恵は涙を拭う。 「……ごめんなさい……」 「……謝って欲しいんじゃない。べつに一度や二度の浮気なら、まだ許せるよ。でも違うんだろ?」 「……ずっと、豪のことが気になってた……」 理恵の告白は、鷹緒の胸を締めつけた。 「……ごめんな」 突然、鷹緒がそう言った。理恵は驚いて、鷹緒を見つめる。 「おまえの気持ちに気付かなかった……おまえ、もうずっと豪のことが好きだったんだろ? それなのに、俺が縛ってた。その上、仕事で構ってもやれなくて……それは事実だ。邪魔者は、俺の方かもな……」 鷹緒の言葉に、理恵が首を振る。 「違うよ! どうして……どうしてそんなこと言うの? 怒ればいいじゃない。怒って、私を殴りつければいいじゃない! どうしてそうしないの。そうでもしてくれないと、私……」 悲鳴のように、理恵が言った。そんな理恵に、鷹緒は静かに口を開く。 「……楽になれよ。俺だって、おまえの寂しさや傷ごと抱けるほど、人間出来てないし、ここで元のさやに戻ったって、しばらくは俺のスケジュールだって埋まってる。おまえの寂しさ紛らわせることなんて出来ないよ……」 「鷹緒……」 訴えかけるような目で、理恵は鷹緒を見つめていた。鷹緒は眉をしかめて、俯いている。 「豪だって……あいつのことは、よくわかってるつもりだ。あいつの態度はいつだって気に食わないけど、あいつがおまえのことを好きだってことは、前から知ってた……知ってておまえのそばに居させた俺にも責任がある。なによりおまえ、もう豪の方に気持ちが傾いてるんだろう? そのくらいは、俺にだってわかるよ」 二人の間に沈黙が走る。もう、理恵は何も言えなかった。 「……私、鷹緒と別れたくない……」 しばらくして、理恵がやっとそれを口にした。鷹緒は理恵を見つめる。 「……俺だって、別れたくないよ。でも……このままじゃいけないと思う」 「……」 「理恵……俺たち、水と油だって言われてきたけど、俺はそうは思ってない。俺たちはこれで終わりじゃない……しばらく時間を置こう。俺も真剣に考えるから」 鷹緒はそう言うと立ち上がり、寝室へと入っていった。理恵は、その場で泣き崩れた。
次の日の早朝。一睡も出来なかった鷹緒は、静かに部屋を後にする。 互いの部屋に、もはや理恵の気配はない。理恵は内山のところに出ていったのだと確信し、鷹緒は一人、仕事へと向かっていった。
一週間後。東京に戻った鷹緒は、その足で広樹の事務所へ向かった。 「おかえり。どうだった? 広島は」 広樹が尋ねる。 「うん、仕事は順調。料理はうまいし、最高だった」 「鷹緒。早々なんだけど、大事な話があるんだ」 改まった様子の広樹に、鷹緒が首を傾げる。 「なに?」 「おまえ、正式にうちの事務所に入ってくれないか?」 「……」 「おまえ、まだモデル事務所所属だろ? カメラマンとして認められてきてるのに、ほとんどフリーで活動してるじゃないか。うちの事務所はまだ立ち上げて間もないけど、おまえには当初からずいぶん手伝ってもらってるし、仕事も回してるよな。おまえももうモデルの仕事はほとんど請けてないんだし、ここらで正式にカメラマンとして来てくれないか? おまえが来ればうちも助かるし、今まで以上に仕事を回せるように頑張るよ」 広樹の言葉に、鷹緒が笑った。 「ずいぶん、見込まれたもんだな……」 「僕は本気だよ」 真剣な眼差しの広樹に、鷹緒が俯く。 「うん……正直言うと、いろいろ考えてた。どっちみち、そろそろモデル事務所は辞めようと思ってたんだ」 「じゃあ……」 「ああ。まあとっくに、俺はこの事務所の人間だって感じがしてたよ」 「じゃあ、よろしく頼むよ!」 「ああ」 二人は握手を交わす。 「そうだ、夕飯は食べたのか?」 「いや」 「じゃあ、食べに行こう」 そう言って、二人は事務所を出ていった。
「どこにしようか。いつものところでいいか? 必ず誰かしらに会うんだけどな……美味いから仕方ない」 「ギョーカイ人の巣窟か」 鷹緒が、苦笑して言う。 「どちらかというとモデルが多いな。この辺、モデル事務所が多いから」 二人はそう言いながら、近くの料理屋へと入っていった。雰囲気の良いその店は、全席個室で隠れ家風を気取り、業界人御用達だと人気である。広樹もまた、行きつけの店にしていた。 「あ、諸星さん!」 店に入るなり、鷹緒が声をかけられた。鷹緒が所属しているモデル事務所の後輩である。 「なんだ、おまえらも食事か」 苦笑して、鷹緒が言った。 「はい、一緒に飲みましょうよ。あと何人か来てますよ」 「ゆっくり飲みたいから、今度な」 「残念です……」 後輩は、そのまま去っていった。 「別の店にしようか。もしかしたら、理恵ちゃんも……」 広樹が察して言う。鷹緒は表情を変えずに、中へと入っていく。 「いいよ、別に……」 二人は、仕切られた個室へと通された。早速、酒を交わしながら、広樹が尋ねる。 「……それで、その後どうなったんだよ?」 「どうって?」 「だから、その……理恵ちゃんとさ」 「……さあ」 「さあって、おまえ……」 静かに微笑んで、鷹緒は日本酒を飲む。 「俺の出張もあって、会ってないよ。出る時には、すでに出てった後みたいだったし……まあ、このまま離婚かもな……」 鷹緒の言葉に、広樹が身を乗り出した。 「……本気で言ってるのか?」 「本気もなにも……しょうがないだろ? あいつが別のやつ好きになって浮気して、ただそれだけのことじゃん」 煽るように酒を飲みながら、鷹緒は溜息をつく。 「おい、飲み方考えろよ……」 「なんか……わかんないんだよ」 静かに、鷹緒がそう言った。 「え?」 「女の愛し方……とか、結婚とか。俺には、もともと結婚なんて無理だったのかもな……」 「鷹緒……」 「……俺、あんまり親に愛された記憶もないし、親も再婚だから、普通の家庭っていうのがよくわかってなくて……義理の兄弟とも馴染めなくてさ。そんな中で、自分自身が作る家庭っての、よく考えてなかった気がする」 広樹は口を挟むことなく、鷹緒の話を黙って聞いている。鷹緒は話を続ける。 「あいつのことも放りっぱなしで……だから俺、あいつを責められる立場じゃない。俺も苦しみたくなかったし、あいつも苦しめたくない。いっそ嫌いになれたらよかった……そうしたらあいつ、もっと早くに俺のところから出ていけたのに……」 鷹緒の言葉に、広樹は絶句した。ここまで鷹緒が本心を言うのは、広樹自身も聞いたことがなかった。なにより鷹緒の不器用さが、広樹を締めつけるように伝わる。 「本当だ。居たんですね、先輩」 そこに、空気を一瞬にして打ち壊す人物が現れた。内山である。
|
|