「鷹緒……鷹緒ったら!」 現代――。 その声に、鷹緒が驚いて目を開けると、そこには理恵が立っている。 「なんだよ。びっくりさせんなよ……」 「何が仕事よ。眠ってたじゃない」 「そうか……?」 眠い目を擦りながら、鷹緒が大きなあくびをする。 「……今、何時?」 「十一時半……」 鷹緒の問いかけに、理恵が時計を見て言った。 「どうしたの? あいつは……恵美は?」 「うん……もう帰ったわ」 理恵は鷹緒を見つめた。鷹緒は椅子に座ったままで、下から理恵を見上げている。 「……それで、なに?」 沈黙を破って、鷹緒が尋ねた。理恵は重い口を開く。 「私ね、どうしたらいいのかわからなくて……鷹緒とは、終わったってわかってる。だけど職場が一緒だし、恵美のこともずっと気にかけてくれてて、嬉しかった。それで……」 理恵がそう言いかけた時、鷹緒は椅子から立ち上がった。 「鷹緒……」 「おまえさあ……それ、どういうつもりで言ってんの?」 心なしか怒った様子の声で、鷹緒は背を向けながら言う。 「え……」 「俺にどうして欲しいんだ? 告白か、後悔か? もう一度つき合うつもりか? 恵美を引き取って欲しいのか? おまえにわからない気持ちが、俺にわかるわけないだろ」 少し強く、しかし静かにそう言った鷹緒の言葉は、いつになく重く、理恵の心に突き刺さった。 「……ごめん。どうかしてたね、私……」 「違う! 俺はおまえと別れたからって、おまえのことをないがしろにするつもりはないし、避けるつもりもねえよ。おまえの強いところも、弱い部分も知ってるつもりだ。だから、おまえが困った時や、恵美が呼んだら駆けつける。だからおまえも、少しは素直になれよ! おまえがフラフラしてたんじゃ、俺だって……どこへも行けなくなるだろう?」 「鷹緒……」 鷹緒はいつになく早口で、理恵を見つめていた。理恵は小さく頷く。 「ごめんね……こんな話、鷹緒にするべきじゃないってわかってたんだけど、他に言える人いなくて……」 「それはどうでもいいよ……」 溜息交じりで、鷹緒が言う。 「……わかってる」 そう言って、理恵は押し黙る。鷹緒は煙草に火をつけ、半地下の階段に面した窓のそばに立った。 長い沈黙が、二人を包む。 「……水と油だね。いつまで経っても、私たち……」 沈黙を破って、理恵がそっとそう言った。 「……そうかもな」 煙草の煙を吐き、鷹緒が口を開く。 「……理恵」 「鷹緒」 鷹緒の言葉を避けるように、理恵が呼ぶ。 「鷹緒。私……私ね、やっぱり豪が好きなの……」 理恵が言った。鷹緒は口を挟む様子もなく、静かに聞いている。 「好きで好きで仕方がないのよ……忘れようとしても、全然忘れられなかった。それどころか日増しに想いが強くなる……こんなこと、鷹緒に話すことじゃないってわかってる。だけど、怖いの……このまま豪を好きでいていいのか。このままじゃ私、おかしくなりそうで……」 理恵が涙を流しながら、鷹緒の腕を掴んで言った。鷹緒は静かに理恵を離すと、煙草を消して、もといた椅子に座る。 「……理恵?」 静かに鷹緒が言った。理恵は尚も泣きながら俯いている。 鷹緒は小さく溜息をつくと、立ち上がって理恵の前へ歩いていった。理恵は泣いているばかりだ。鷹緒はそんな理恵の手を取ると、激しくキスをした。そしてそのまま、テーブルへと倒れ込む。理恵は、拒否することも受け入れることもなく、ただ泣いている。 少しして、急に理恵がハッとしたように顔を背けた。しかし、鷹緒は尚も続けようとする。 「やっ……嫌だ!」 理恵はそう言って、鷹緒を突き飛ばして起き上がった。理恵の長い爪が、鷹緒の頬を傷つけている。 「ご、ごめん……」 理恵が言った。 「……もう帰れよ」 「血が出てる……」 「帰れ。俺はもう、おまえの顔なんて見たくないんだよ……!」 鷹緒は静かにそう言うと、理恵に背を向けた。 一瞬、理恵は目を丸くさせると、我に返って小さくお辞儀をする。 「ごめん。ごめんね……」 そう言うと、理恵はそのまま去っていった。 理恵が去った後、鷹緒はしばらくその場に立ちすくんでいた。 唇に触れながら、今の出来事を振り返る。ふと床を見ると、理恵のつけていたつけ爪が一枚落ちていた。壁の鏡を見つめると、左の頬に小さな切り傷がある。鷹緒は俯いた。
回想――。 「はい、諸星です」 数年前のある日、電話の受話器を取って、鷹緒がそう言った。 『ヒロだけど』 相手は、広樹である。 「ああ、なに?」 『またオファーが入ったよ。この間紹介した、デカイ仕事』 「お、マジで? サンキュー」 『でさ、おまえ今日、暇?』 広樹が尋ねる。 「夜は空いてるけど、なに?」 『この間のギャラも預かってるし、飯でも食いに行かない? 理恵ちゃんも誘ってさ』 「ああ、いいけど……あいつ今、出かけてるんだ。今日は遅くなるらしいから、一緒は無理だな」 『そっか。じゃあ仕方なく、野郎二人で飲むか。七時に駅でいいか?』 「ああ。じゃあ、後でな」 鷹緒は電話を切り、出かける支度を始めた。
広樹より早く着いた鷹緒は、駅で広樹を待ちながら、座り込んで煙草に火をつけた。そして、行き交う人並みを見つめながら、持っていたデジタルカメラで、徐にシャッターを切り始める。 その時だった。ファインダー越しに、鷹緒の目が奪われた。カメラから目を離して立ち上がると、一人の女性が立ちすくんでいる。理恵であった。隣には内山がいる。二人は腕を組んでいて、どこから見てもカップルであった。 「鷹緒……」 理恵はすぐに内山から離れ、明らかに動揺していた。 「……なに。どういうこと?」 二人を交互に見つめながら、鷹緒が言った。理恵は押し黙る。 「今日は仕事だったんじゃ……?」 そう言いながら、鷹緒の頭は混乱していた。 「うん、仕事よ……豪と一緒……」 しどろもどろで理恵が言った。その時、内山が不敵に微笑んだ。 「なに言ってんですか、先輩。この状況、見てわからないんですか?」 「ちょっと、なに言うのよ、豪!」 内山の言葉に、慌てて理恵が止めに入った。しかし、内山は言葉を続ける。 「だって、この状況だよ? 認めちゃおうぜ。先輩、僕たちつき合ってるんですよ」 「……なに言って……なに言ってんだ、おまえ」 目を丸くさせ、鷹緒がやっと状況を察して言った。 「見ての通りです。今だって、ホテル帰りですよ。ほら」 ホテルのライターを見せ、内山が言った。そのライターを、無言で鷹緒が振り払う。 「あーあ。落ちちゃったじゃないですか」 そう言ってしゃがみこむ内山は、くすりと笑った。 「でも、お気楽な人ですね。今まで本当に気がつかなかったんだ……僕たち、もう三ヶ月もこの状態なのに」 内山の言葉に、鷹緒が逆上した。その途端、内山の頬に鷹緒の拳が飛ぶ。 「うわ!」 勢いよく内山が倒れた。それと同時に、行き交う人の目も釘づけになる。 その時、広樹が走り寄ってきた。 「なにしてんだ、鷹緒!」 尚も殴ろうとする鷹緒を、広樹が必死に止めようとする。だが鷹緒は、内山を離そうとしない。 「うるさい!」 「やめろって! 何があったか知らないけど、こんなところでなにやってんだ! 仕事だってなくなるぞ」 体当たりで止める広樹に、鷹緒が理恵を見つめる。理恵は怯えた表情をしたまま、何も言おうとはしない。そんな理恵に、鷹緒は背を向けた。 「鷹緒……」 理恵が、やっとそう口にする。 「どっか行けよ……もう、おまえの顔なんて、二度と見たくない!」 鷹緒はそう言うと、その場から去っていった。広樹は理恵の方を見つめながらも、鷹緒について去っていった。
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