夕方。スポーツジムにいた沙織を、牧が迎えにきた。 「いいんですか? 牧さん、事務員なのに、私なんかを迎えにきちゃって……」 事務所に帰る途中で、沙織が尋ねる。牧は笑って答える。 「いいの、いいの。たまには私も、日の光を浴びたいもの」 「あはは。もう夕日ですけどね……」 「あーあ。今日も事務所に缶詰めの日だったわ」 「でも、一人でも帰れるのに、すみません」 「いいんだってば。副社長命令だし。それに今日はシンコンの打ち合わせだから、定時に事務所閉めることになってて、もう誰もいないのよ」 二人は事務所へと戻っていった。 牧が言う通り、いつもは実質上遅くまで開いている事務所が、今日は定時刻で閉められていた。そんな事務所を、牧が開ける。 「誰もいない……」 事務所の静けさを感じ、沙織が言った。 「そりゃそうよ。今、お茶入れるわね」 「あ、私やります」 「いいわよ。お湯沸いてないみたいだから、これから沸かすし。ああ……お腹空いてない? 会議で軽くいるかもしれないから、私、買って来るわね。沙織ちゃんはここでゆっくりしてて。電話が鳴っても出なくていいし、誰か来ても開けないで。すぐ戻るから」 「はい……」 そう沙織が返事をすると、牧は事務所を出ていった。 残された沙織は、応接スペースのソファに座り、事務所をぐるりと眺める。広いその部屋は、モデル部署と企画部署が対称的に分かれている。 沙織は、企画部署の奥に置かれた、鷹緒の机に向かった。たくさんのファックスやメモが置かれ、写真や書類が無造作に積み上げられている。汚らしいが、鷹緒らしい物が散乱する机である。 「鷹緒さん……好き……です……」 鷹緒の椅子に座り、机をなぞりながら、静かに沙織が言った。誰も知ることのない、沙織の心からの告白だった。 その時、遠くでカチャリという音が聞こえ、沙織は慌てて立ち上がった。すると、入口には小さな女の子が立っている。鷹緒と理恵の娘、恵美である。 「あ……恵美ちゃん」 近付きながら、沙織が声をかける。前に一度だけ会ったことがある。 「沙織ちゃん」 恵美も沙織を覚えていた。事務所を見渡しながら、口を開く。 「誰もいないの?」 「うん、そうなの……でも、もうすぐお母さん帰って来ると思うよ。約束してるの?」 「うん」 「じゃあ、中に入って待っててね。あ、そろそろお湯沸いたかな……」 沙織はそう言って給湯室へと向かい、缶ジュースを持って戻ってきた。 「ジュースあったよ。どうぞ」 自分の家のように、慣れた様子で沙織が差し出す。恵美は嬉しそうに、それを受け取った。 「ありがとう。今日は打ち合わせだよね? 遅くなるのかな……」 ジュースを飲みながら、恵美が尋ねる。 「さあ……でも恵美ちゃんもいるし、きっと早く終わるよ。終わったら、お母さんと食事でも行くの?」 「うん。ママとパパと、お食事に行くの」 「え、パパって……鷹緒さん?」 沙織の言葉に恵美は驚き、笑顔で口を開く。 「そっか。沙織ちゃん、パパの親戚だから、パパとママが結婚してたこと知ってるんだね!」 「う、うん……」 「恵美、パパの写真あるよ。見せてあげる」 恵美はそう言って、おもちゃのようなロケットペンダントを差し出した。沙織はそれを覗き込む。小さい写真の切り抜きが、ペンダントに入っている。 「え……?」 沙織は写真を見て驚いた。その小さな写真に、鷹緒の顔はない。多少若い頃のものではあろうが、どう見ても鷹緒ではない。 「え……これが、パパ?」 「うん。恵美のパパ」 「これが……鷹緒さん?」 もう一度、沙織は目を凝らして写真を見つめる。 そんな沙織に、恵美がきょとんとした表情で首を振った。 「違うよ」 「え?」 「諸星さんもパパだけど、恵美の本当のパパじゃないんだよ」 「……え?」 恵美の言葉に、沙織は耳を疑った。いつか鷹緒が、自分で恵美を娘だと言っていたはずだ。 考えこむ沙織に反して、恵美は言葉を続ける。 「あのね、パパは恵美のパパだけど、血が繋がってないの。本当のパパは、ずっと外国に行ってたの。恵美は会ったことないから覚えてないけど、やっと帰ってきてくれたから、一緒に暮らすんだよ。ママが言ってた」 「……それ、本当なの?」 淡々とそう言う恵美に、沙織が聞き返す。 「うん。沙織ちゃんはパパの親戚だから、教えてあげる」 「この人……内山さん?」 沙織が写真に目を凝らして言った。小さくてよくわからないが、鷹緒でないなら内山だと思った。 恵美は尚も笑顔で頷く。 「そうだよ。知ってるの?」 「知ってるってほどじゃ……」 その時、牧が帰ってきた。 「ただいま。あら恵美ちゃん、いらっしゃい」 「牧ちゃん。こんばんは」 二人が挨拶を交わす。数える程度ではあるものの、少なからず面識はある。 そんな二人のそばで、沙織は顔色を変えて考え込んでいた。 (恵美ちゃんの言っていることは本当なの? 鷹緒さんの娘じゃない……じゃあなに? 鷹緒さんは、それを知っているの……?) 「沙織ちゃん、どうしたの?」 固まっている沙織に、恵美が尋ねる。沙織は慌てて我に返ると、硬い笑顔で首を振ることしか出来ない。 「うん? なんでもないよ……」 「沙織ちゃん」 そこに、牧が声をかけた。 「は、はい」 「今、社長から連絡があって、もうすぐ着くそうだから。悪いけど私は先に帰るわね。会議室に、すでに缶のお茶と軽食をセットしてあるから」 「わかりました」 「じゃあ、先に帰らせてもらうわね」 「お疲れさまでした」 牧は事務所を出ていった。 「ただいまー」 そこに、入れ違いで理恵が帰ってきた。すぐに恵美が駆け寄っていく。 「ママ!」 「ああ、恵美。待たせてごめんね……これから打ち合わせだから、もう少し待ってね」 「うん」 「ただいま」 そこに、広樹と二人の男女が入ってくる。 「理恵ちゃん、沙織ちゃん。週刊トゥインクルラックの赤城君と、SYテレビの水上さん。鷹緒ともよく組んでて、昔からの知り合いなんだ。今回、沙織ちゃんの記事を載せてくれるってことで、お呼びしたわけです」 「はじめまして。副社長でシンコン担当の石川です。彼女がうちから出す候補者の、小澤沙織です」 広樹の言葉を受け、理恵が沙織を紹介し、挨拶を交わした。 「よろしくお願いします」 「じゃあ、会議室へ行きましょう」 広樹は二人を案内して、奥の会議室へと入っていった。 「さて、じゃあ私たちも行きましょう。恵美、ここで大人しく待っててね」 「わかってるよ」 理恵の言葉に頷くと、恵美はソファに座って本を読み始めた。 そこに、もう二人入ってきた。鷹緒と、先日事務所を騒がせた、内山豪である。異様な組み合わせに、沙織は一瞬、息を呑む。 「パパ!」 その言葉に、沙織はハッとする。恵美が駆け寄ったのは、鷹緒の方だった。 「よう」 「よう!」 親しげに、鷹緒と恵美が挨拶を交わす。その後、恵美がじっと内山を見つめた。 「あの……」 少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに、恵美が内山に声をかける。 「何を照れてんだ、おまえは」 鷹緒は苦笑して、恵美の頭を軽く叩くと、会議室へと向かっていった。 残された理恵と内山と恵美だが、内山が恵美を抱き上げたことで、幸せそうな家族に見えた。沙織は静かに、会議室へと小走りで向かった。
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