理恵の話を聞きながら、鷹緒は数本の煙草を吸っていた。しかし、どれも火をつけるものの、吸う気配はなく、すべて灰となってビールの空缶へと落ちていく。 「……」 沈黙になった中、鷹緒はソファにしっかりと寄りかかり、本棚の上に置かれたいくつかの写真を見つめた。ほとんどが恵美の写真だが、中には鷹緒と一緒のものもある。その中の一つに、広樹や内山も写っている集合写真のような写真もある。 「……」 「私、豪がわからない。嘘ばかりついて、いつも混乱する……」 何も言わない鷹緒に、理恵がそう言った。鷹緒は静かに、最後の煙草をもみ消す。 「……そうだな。あいつは馬鹿で嘘つきで、生きる価値すらない人間だ」 鷹緒はそう言って、理恵を見つめた。理恵はその言葉に、深く傷ついた顔をしている。鷹緒はそんな理恵を見て、静かに微笑んだ。 「あいつ、確かに嘘つきだけど、おまえに言ったことは本当なんじゃないの?」 「え……?」 「それに、俺があいつの悪口言って、おまえが不快な思いをした……おまえの本心はそれだろ? おまえもたまには、素直になれよ……」 それを聞いて、理恵は静かに涙を零す。 「鷹緒……?」 「あいつ、帰国したその足で、誰を訪ねてきたと思う? おまえでもヒロでもなく、俺を訪ねてきたんだぞ?」 「え? うん……」 その言葉の意味がわからず、理恵は生返事をする。 「俺に殴られにきたんだぞ? その意味が、おまえにはわかんないの?」 鷹緒の言葉に、理恵はハッとした。 「……豪が私と寄りを戻したいって、そう言っているのは本当のことだっていうの? あいつは計算高い男なのよ。私がそう信じるって、計算して鷹緒に殴られたかもしれないじゃない!」 理恵が言った。興奮して、涙が止め処なく溢れている。 そんな理恵に対して、鷹緒は俯いたまま静かに口を開く。 「そんなこと言ったら可哀想だよ、あいつ……少なくとも昔、俺と張り合った男だぞ?」 二人の間に沈黙が走る。内山豪は、以前鷹緒と張り合って、理恵を取り合いした仲であった。 「じゃあ、どうしたらいいの? 私……このままじゃ、なんにも出来ない……」 子供のように泣きじゃくる理恵を、鷹緒はそっと抱きしめた。鷹緒の腕の中で、理恵は暖かさを感じる。 「落ち着く。鷹緒といると……」 何も言わず、鷹緒は理恵を抱きしめる。そして静かに口を開いた。 「……今まで一人でよく頑張ったよ、おまえは。だから……もういいんじゃないのか? 自分の気持ちに正直になれよ。そうじゃなきゃ、俺だって……」 「うん……うん……」 鷹緒に抱きつきながら、理恵が返事をする。泣きじゃくったままの様子は、いつもの毅然としている理恵ではない。 少しして、鷹緒は理恵を離すと、携帯電話を取り出して電話をかけ始めた。そして繋がったことを確認すると、何も言わずに理恵に差し出す。理恵はそのまま、受話器に耳を当てた。 『もしもし?』 電話の向こうからは、内山の声が聞こえる。 「……豪?」 内山の声を聞いて、理恵はますます涙を流した。 『理恵?』 「……うん」 そんな理恵を残して、鷹緒は携帯電話を渡したまま、理恵のマンションを後にした。
マンションでは、沙織が鷹緒の帰りを待っていた。鷹緒と理恵、そして内山がどういう関係なのか、考えれば考えるほど、気になって仕方がない。なにより、鷹緒のことをもっと知りたいと思う。 鷹緒を待つ沙織は、何度も鷹緒の部屋に繋がるドアを開けてみた。勝手に入るなと言われているが、すぐにでも会いたいと願う自分がいる。 しかしその日、何時になっても、鷹緒が帰ってくることはなかった。
次の日。眠い目で沙織が事務所へ向かうと、広樹が声をかけた。 「おはよう、沙織ちゃん。なんだか眠そうだね」 「あ、おはようございます、ヒロさん。いえ、ちょっと……大丈夫です」 沙織が苦笑して言う。 「鷹緒は一緒じゃないの?」 「はい……昨日はどこかへ出かけたみたいで、帰ってきてない感じでしたし……」 「そうなの? 今日は定時に来るって言ってたんだけど、来ないな……理恵ちゃんも。ああ昨日、何かあったかな……」 「え?」 意味深な広樹の言葉に、沙織が聞き返す。 「あ、あの。昨日の内山って人……」 沙織がそう言いかけた時、広樹は電話を取っていた。 「え、なに?」 「いえ……なんでもないです」 「そう、ごめんね。ちょっと電話」 広樹は電話をかけ始める。 「あ、もしもし……あれ、理恵ちゃん? 僕、理恵ちゃんにかけちゃったのか……え? あ、はーい……」 広樹は電話を切った。すると、すぐに理恵が入ってきた。 「ごめんね、ヒロさん。ちょっと遅刻しちゃった……」 寝不足気味で、少し目を腫らした理恵が言う。 「いいよ……鷹緒は?」 「ううん。一緒じゃないけど……」 その時、鷹緒がやってきた。広樹が声をかける。 「おう、鷹緒。おはよう」 「ああ、悪い。定時に来るって言ったのに」 「いいよ。ファックス、いくつか届いてるよ。いつものように机の上」 「うん」 鷹緒は自分の机へと向かっていった。そこに、理恵が後をついていく。その光景を、沙織はじっと見つめていた。 「鷹緒さん」 理恵が声をかける。事務所では、二人がかつて夫婦だったと知っている者はほとんどいないので、態度もあくまで他人行儀である。 ファックスを見つめながら、鷹緒が返事をする。 「ん?」 「これ……昨日はごめんなさい……」 他の人に見つからないように、理恵がそっと携帯電話を差し出した。昨日、鷹緒が理恵に貸したままの携帯電話である。鷹緒は優しく笑った。 「大丈夫?」 「うん。ありがとう……」 「ああ」 それ以上は何も聞かず、鷹緒はファックスをまとめて理恵に背を向けた。理恵も、もうそれ以上は何も言わない。 そのまま鷹緒は、慌しく広樹に近付いた。 「ヒロ。俺、打ち合わせに行ってくる」 「ああ。鷹緒……」 広樹が言いかけた。内山が帰ってきたことで、内山と確執のある鷹緒と理恵に心配を抱いているものの、人目もあるのでこの場では聞くことが出来ない。 「うん?」 「あ、いや……なんでもないよ。行ってらっしゃい」 広樹の言葉に、鷹緒が察して苦笑する。 「何もないよ。じゃ、行ってきます」 小さな声でそう言った鷹緒は、沙織と目が合った。鷹緒は小さく微笑み、沙織の背中を叩く。 「頑張れよ」 「う、うん……」 「行ってきます」 鷹緒はそう言うと、事務所を後にした。 沙織の目に映る今日の鷹緒は、いつもと同じように見えて違う気がした。 「沙織ちゃん?」 その声に、沙織はハッとして顔を上げた。するとそこには、沙織の顔を覗き込む理恵の顔がある。 「理恵さん……」 「どうしたの、ぼうっとして。大丈夫?」 「あ、はい。なんでもないです……」 「そう。今日はボイストレーニングよね? その前にとりあえず、奥の部屋に行きましょう」 理恵はそう言って、沙織とともに奥の部屋へと入っていった。 「……どうかした? シンコンが不安なのかな?」 奥の部屋に入るなり、理恵が沙織に尋ねる。沙織は驚いて顔を上げた。 「え?」 「なんか、心ここにあらずって感じだから……」 「そ、そうですか?」 沙織が言う。顔に表れているということなど、考えていなかったのだ。 「落ち込んでるように見えるわよ。何か悩みごとでもある?」 理恵の言葉に、沙織は一瞬戸惑った。しかし理恵の目を見つめると、静かに口を開く。 「あ、あの……昨日、鷹緒さんと会ったんですか?」 意を決して、沙織が尋ねた。 「あ、いえ、あの……昨日、鷹緒さんが出かけるの、気付いたから……」 言い訳をするように、少し焦った様子で沙織が続けて言った。そんな沙織に、理恵は少し驚いた表情を見せた後、静かに微笑む。 「沙織ちゃん、もしかして、彼のこと……?」 少し悪戯な瞳で、苦笑しながら理恵が尋ねた。沙織は困った様子で否定する。 「いえ、そういうんじゃなくて、あの……」 「そう? それならごめんね……でも、もし私と鷹緒に何かあると思って落ち込んだりしてるんなら、それは間違いだからね」 静かに微笑んで、理恵が言った。 「……でも、お二人は、夫婦だったんですよね?」 「そうだけど、もう昔の話よ?」 「……鷹緒さんは、そうは思ってないんじゃないですか?」 沙織の言葉に、理恵が驚いた顔を見せる。 「……どうしてそう思うの?」 「だって……ヒロさんが前に、鷹緒さんは恋人を作らないって言ってたから……」 「……だからって、私と別れたことが原因で、恋人を作らないんじゃないわよ。もちろん、それがきっかけで、私がトラウマ作っちゃったのかもしれないけど、彼がまだ私を好きでいてくれてるとか、そういうのはないわよ」 理恵が言った。沙織は切実な目で理恵を見つめる。 「どうしてそう思うんですか? 鷹緒さんが、理恵さんを好きでいることはないなんて、どうして断言出来るんですか?」 勢いをつけて沙織が言った。理恵はそれを聞いて、静かに微笑む。 「……出来るわよ。あんな別れ方したんだもん……昔から、私たちは水と油で、しょっちゅう喧嘩ばっかり。もうそれが楽しいと思える子供じゃないわ。沙織ちゃん、やっぱり鷹緒のこと……?」 理恵に尋ねられ、沙織は小さく頷いた。 「……そう」 見守るような瞳で、理恵も頷く。沙織は重い口を開いた。 「なんか……気になって。もっと知りたいって思ってるだけで、好きかどうかなんて……」 「気になるってことが、恋なんじゃないのかな」 その時、電話が鳴った。 「あ、ごめんね」 理恵は電話を取る。沙織はお茶を飲みながら、時計を見た。理恵はすぐに電話を終えて立ち上がる。 「沙織ちゃん。私、打ち合わせが早まっちゃって、もう出かけなきゃならないの……ボイトレは、一人で行けるかな?」 「あ、はい。大丈夫です」 「そう。ごめんね……ボイトレが終わったら、事務所の誰かに迎えに行かせるから、その後は夕方までスポーツジムね。それが終わる頃には、私も事務所に帰ってこれると思う。夜にはシンコンの打ち合わせがあるから、沙織ちゃんも一緒にいてね」 「わかりました」 「じゃあ、行って来ます」 理恵は慌しく事務所を出ていった。 残された沙織は、上の空でいた。理恵が鷹緒と関係はないと言っても、説得力がない。聞きたいことの半分も聞けず、沙織の不安は最高潮に達していた。
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