夕方。 「鷹緒さん、遅いわね」 定時を過ぎて人がいなくなった事務所で、鷹緒の帰りを待つ沙織に、唯一、残業をしている牧が言った。 「はい……今日は早く終わるからって、自分から言ったのに」 そう言った沙織は、ソファに座ってつまらなそうにしている。そんな沙織に、牧は苦笑する。 「まあ、もうすぐ帰ってくるわよ。でも今日は、社長も理恵さんもいないし静かね。二人揃って打ち合わせだっけね……」 「そうですね。理恵さんには、今日もしごかれましたけど……」 「そう。トレーニングはどう?」 「きついですよ、マッチョになりそう。ウォーキングだけでも、筋肉痛になっちゃいます」 沙織の言葉に、牧が吹き出した。 「そっか。もうすぐだもんね、シンコン。今週、二次審査でしょう? 通るといいわね。三次までいけば、鷹緒さんもいるわけだし。もうトロフィーも、もらったも同然ね」 「あはは……頑張ります」 沙織は鷹緒の名を聞いただけで、力が湧き上がるかのように笑って答えた。 「すみません」 その時、入口から男性が声をかけてきた。牧にも沙織にも、面識はない。 「はい。どちらさまでしょう?」 突然の客に、牧は慌てて立ち上がり、そう声をかけた。そんな牧に、男性は事務所内を見渡し、口を開く。 「諸星鷹緒さん……おいでになりますか?」 「申し訳ございません。諸星は、只今席を外しておりまして……失礼ですが、どちらさまでございますか?」 牧の言葉を受けて、男性は優しい笑顔で会釈をした。 「内山と申します。諸星さんとは、古くからの仕事仲間で……何時頃帰られるか、わかりますか?」 「もうすぐ帰るとは思いますが……」 「そうですか。海外から帰ったばかりなのですが、近くまで来たものですから、ぜひ久しぶりに会いたいと思いまして……」 内山と名乗った男は、大きなスーツケースを持ったまま、牧に笑いかけている。 「そうでしたか。事務所はもう終わりなので、大したお構いも出来ませんが、そういうことでしたらどうぞ中で待ってらしてください。古くからのお知り合いでしたら、きっと諸星も喜びますよ」 牧が応接スペースに案内しながら言う。沙織はというと、近くのデスクの前に座り、そのやりとりを見つめていた。 その時、社内の電話が鳴ったので、牧が電話に出る。沙織は手持ち無沙汰で、給湯室へと向かっていった。そして牧の代わりにお茶を入れる。 そこに、沙織の携帯電話が鳴った。見ると、メールである。 『ごめん。仕事が長引いた。もうすぐ事務所に着きます』 鷹緒からである。沙織は微笑むと、電話を終えた牧が顔を出した。 「あ、ごめんね、沙織ちゃん」 「いえ。私、やりますよ。牧さん、他にも仕事残ってるんでしょう?」 お茶を入れながら、沙織が言った。牧は少しすまなそうにして頷く。 「ありがとう。電話、社長からだったわ。今から帰るからって、その一言だけ」 「そうですか」 「じゃあ私、仕事の続きやるから、あとお願いね。でも事務所は閉めてあるんだし、鷹緒さんのお知り合いみたいだから、お相手はしなくていいからね。沙織ちゃんは、事務員じゃないんだから」 「はい」 牧の言葉に頷くと、沙織はお茶を持って、応接スペースへ向かった。 そこでは、内山が立って外を眺めている。 「あの……お茶、どうぞ」 沙織がそう言うと、内山は笑ってソファに座った。その笑顔は、とても可愛い。 「ありがとう。君はずいぶん若く見えるけど、事務員さん?」 内山の質問に、沙織は首を振る。 「いえ。私は……」 「ああ、モデルさん」 その言葉に、沙織は驚いた。 「え、どうして……」 「その立ち方が、モデルっぽい」 意識していなかったので、沙織は驚いて笑う。 「本当ですか?」 「本当だよ。僕、前にモデルやってたから」 「モデルさんだったんですか?」 「うん。今は記者として、主にパリで活動中」 「パリで? じゃあ、パリコレとかも?」 「何度か出たこともあるけど、今は見る側だね」 その話を聞いて、沙織は頷く。 モデルだったという内山は、かなりの長身で、身のこなしも格好が良い。 「おかえりなさい」 その時、牧の声と共に帰ってきたのは、鷹緒であった。鷹緒は内山を見て、顔色を変える。 「……おまえ……」 鷹緒は内山を見つめたまま、やっとそれだけを口にした。 「先輩。お久しぶりです」 内山がそう言ったその瞬間、鷹緒の顔が一気に険しくなり、内山に駆け寄り、殴りつけた。 沙織と牧はわけがわからず、その光景を見つめている。鷹緒は、内山の襟元を掴んで、離そうとしない。 「た、鷹緒さん……」 やっとのことで、沙織が止めに入ろうと声をかける。しかし、それを遮ったのは、内山の笑い声だった。 「ハッハッハッハ。やっぱり! 先輩、僕が帰国したと同時に、真っ先に僕を殴ると思ってましたよ」 内山が言った。鷹緒はまだ怒りが収まらないといった様子で、内山の襟を一層強く掴む。 「豪。てめえ……」 「離してください。先輩が殴りにくる前に、自分から殴られに来てあげたんですから」 不敵な笑みを浮かべながらそう言う内山に、鷹緒はもう一発、頬を殴る。その瞬間、内山は床へと倒れこんだ。同時に鷹緒の眼鏡が落ち、フレームが折れるように曲がる。 「豪……!」 そう言って、凍りつく社内の時を戻したのは、帰ってきたばかりの理恵である。 一同は理恵を見つめた。その後ろには広樹もいて、目を大きく見開きながら、静かに口を開いた。 「内山……豪……」 「ヒロさん。理恵……噂通り、勢揃いで楽しそうですね、この事務所は」 内山がそう言ったところで、もう一度、鷹緒が内山の襟元を掴んだ。 「やめて、鷹緒!」 そんな鷹緒を止めたのは、理恵だった。それと同時に、広樹も止めるように二人の間に立つ。 「……」 目の前の広樹から目を逸らし、鷹緒は静かに内山から離れた。 「……どういうことだ? 急に日本へ帰ってきて……それに噂通りって、何のことなんだ?」 内山を見つめて、冷静に広樹が尋ねる。沙織と牧は、その場から一歩も動くことが出来ず、その様子を見つめていた。 「別れた夫婦が同じ事務所にいるんだ。そんな面白い情報、僕にだってすぐ届きますよ」 「じゃあ、だから戻ってきたのか?」 「まさか。僕だって暇じゃないんです。ただ、理恵に会いに来たんですよ」 内山のその言葉に、理恵の表情が変わった。鷹緒は眼鏡を拾うと、ソファへと座り、そばに立っている沙織を見つめる。 「……帰るか」 鷹緒はボソッとそう言うと、立ち上がった。 「待て、鷹緒。打ち合わせを……」 「後にしてくれ」 広樹の言葉を、いつになく強い口調で鷹緒が拒む。 「いえ、僕が出ていきます。今日は挨拶に寄っただけですから。お騒がせしました。では、また……」 内山はそう言うと、静かに事務所を後にした。 「待って!」 その後を、理恵が追っていく。二人の姿は、すぐに見えなくなった。 静けさだけが残る事務所を、広樹の携帯電話の音が打ち消した。再び時間を取り戻した空間で、鷹緒は前髪をかき上げながらソファに座り、外を見つめる。手にはひしゃげたフレームの眼鏡が握られ、沙織の目に、初めて鷹緒の素顔が映った。 同時に、鷹緒の携帯電話にも着信が入る。鷹緒は電話に出ると、淡々と会話を始めた。 そこに電話を終えた広樹がやってきて、鷹緒の前のソファに座る。 「ごめんね……なんか、おっそろしいところに出食わせちゃったね」 すまなそうにしながら、沙織と牧に広樹が言った。牧は首を振る。 「いえ、ごめんなさい。こんなことになると思わなくて……」 「いいんだよ。強盗とかじゃなくてよかった」 「はい……でも、誰なんですか? あの人、鷹緒さんの知り合いだって……」 牧が尋ねる。その質問に、広樹は小さく微笑んだ。 「そっか。牧ちゃんは知らなかったね……まあ鷹緒や理恵ちゃんの、モデル時代の仲間みたいなものだよ。でも、あいつは昔からいろいろ事件を起こしててね……みんなそれぞれ確執があるんだ。気にしなくていいよ。今後あいつが来ても、客として扱ってやって。別に危険なやつではないから」 「はい……」 「はあ……まったく、ハタ迷惑なやつ……」 広樹が珍しく溜息をついて言った。そこに、電話を終えた鷹緒が、目の前の広樹を見つめる。 そんな鷹緒に、広樹が口を開く。 「……おまえも、事務所で手を出すなよ」 「……仕方ないだろ」 苛立った様子のまま、鷹緒が答えた。 「まあ、仕方ないけどね……」 広樹の言葉を聞きながら、鷹緒は煙草を咥える。 「……沙織。もうちょっと待ってて。すぐ終わるから」 「う、うん……」 鷹緒の言葉に、沙織は頷いた。 今度は広樹が牧に声をかける。 「ああ、牧ちゃん。遅くまでごめんね……もう大丈夫だから、帰っていいよ」 「はい……じゃあ、失礼します」 突然の修羅場に、牧もまだショックを隠しきれない様子で、静かに事務所を後にした。 「……じゃあ、軽くやっちゃおうか」 頭を切り替えるように、ハキハキと広樹が言った。鷹緒は無言でノートを開く。 そのまま軽い打ち合わせが、二人の間で行われた。沙織は話に入れないので、ベランダから外を眺める。 あんな鷹緒は見たことがなかった。怖いと同時に、何があったのかと考えずにはいられなかった。
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