ある日。大きな荷物を持った沙織が、理恵とともに事務所所有のスタジオであるマンションへとやってきた。夏休みに入った沙織は、シンデレラコンテストのためのレッスンを本格的に受けることになっており、事務所近くにあるこの場所から、レッスンへと通うことになっている。 このマンションは、以前は鷹緒と理恵が住んでいた部屋であり、隣の部屋には未だ鷹緒が暮らしている。 「沙織ちゃん、ここは来たことあるんだっけ?」 理恵が尋ねる。 「あ、はい……この間も、ここで写真撮ってもらいました」 「ああ、宣材写真ね? じゃあ少しは勝手がわかるわね。寝室は控え室を使って。もしかしたら撮影に何度か使うかもしれないけど、控え室は使わないようにさせるから」 「ありがとうございます」 「昨日、掃除したばかりだから、まだ行き届いてないところもあるかもしれないけど……勝手に使ってね」 「はい」 そう返事をすると、沙織はリビングに荷物を置いた。理恵は手際よくお茶を入れる。 「あ、あと注意事項。そこのドアなんだけど……」 リビング部分のドアを指さして、理恵が言った。 「鷹緒さんの部屋と繋がってるんですよね……?」 沙織が、理恵の言葉を遮って言う。 「そう、知ってたのね」 「はい……」 「心配なら鍵をつけてもいいんだけど、彼に限って親戚で未成年のあなたをどうこうすることないと思うし、まあ安心して」 理恵の言葉に、沙織が笑う。そして沙織は、静かに口を開いた。前から気になっていたことだ。 「あの……ここって、理恵さんと鷹緒さんが暮らしてたんですよね? どうして二部屋あるんですか?」 その沙織の問いかけに、理恵は苦笑に似た微笑みを浮かべる。 「うーん……私たちは結婚しても、やっぱりお互いにプライベートな部分をきちんと持ちたかったのよね。お互いに生活リズムも全然違うし、私も彼も頑固だから、一緒に住むとなったら合わないのよ」 そう言って笑った理恵につられて、沙織も微笑む。 「ここに住む前は、小さなマンションで少しの間一緒に暮らしてたんだけど、生活リズムが違うから、お互いに気を使って生きるわけじゃない? 疲れちゃってね……だから、仕事も軌道に乗ってきたところだったし、結婚資金とかもあったしで、少し無理して二部屋買ったの。そこのドアはあんまり使わなかったけど……唯一、夫婦を繋いだドアかな」 「……じゃあこの部屋は、理恵さんにとって思い出の場所なんですね?」 話を聞いて、沙織が言った。理恵は少し考えると、静かに首を振る。 「うーん。そうね……でも、今は事務所所有のスタジオだし、私が生活していた頃とはまったく違うわよ。だから気にせず好きに使って。でも鷹緒の部屋には勝手に入っちゃ駄目よ。怒るから」 「わかってます」 二人は苦笑した。 「じゃあ、今日から約一ヶ月、ここで頑張ってね」 「はい」 理恵の言葉に、沙織が頷く。今日から一人暮らし同然で、ここに住むことになる。不安もあったが、今は楽しいほうが大きい。 「じゃあ、私はこれから事務所に戻って、いろいろやらなきゃならないから。何かあったら、すぐに電話してね」 「はい。ありがとうございました」 理恵の言葉に頷いて、沙織は玄関まで見送り、口を開く。 「あの……鷹緒さん、今日は出張なんですよね?」 「ええ。確か、京都へ撮りだって聞いてるわよ。今日は帰らないみたい」 「そうですか……」 「じゃあ行くね。戸締りはちゃんとすること。あとは明日八時に、事務所へお願いね」 理恵はそう言って、部屋を出ていった。 「なんだ……鷹緒さん、今日は帰らないんだ……」 部屋に一人残された沙織は、リビングへと戻っていった。ふと、リビングにつけられたドアが気になる。いけないと思いつつも、沙織はドアに手をかけた。 ドアの向こうをそっと覗くと、薄暗い鷹緒の部屋が見える。あまり生活感が感じられず、もちろん人の気配もない。沙織はそっとドアを閉めた。 「鷹緒さんと理恵さんが、暮らしてた場所か……」 沙織は少し、この部屋が嫌になった。きっと楽しい結婚生活だっただろう。二人の姿が目に浮かんだ。
その夜。沙織は寝つけずに起き上がると、リビングへ水を飲みに行った。電気をつけるとソファに座り、水を一気に飲み干す。 まだこの部屋に慣れていないからか、まったく寝られる気配がない。沙織がぼうっとしていると、突然、リビングのドアが開いた。 「キャー!」 驚いた沙織が、途端に悲鳴を上げる。しかし目の前には、鷹緒の姿があった。 「うわ、おまえか」 そう言う鷹緒も、少し驚いた表情を見せている。 「た、鷹緒さん! 超びっくりした。な、なんでここにいるの? 京都に撮影じゃ……」 「ああ。早く終わったから、日帰りで帰ってきたんだ。おまえ、今日からここか……忘れてた」 「ひどい。もう夏休みだよ? 夏休み入ったら私がここに住むって、ずっと前から言ってたじゃない。もう、本当びっくりした!」 沙織は驚きながらも、笑って答える。 「こっちもびっくりしたよ。ここの電気ついてるのがドアの隙間から漏れてたから、消し忘れかと思った。それより、初日から夜更かししてんじゃねえよ。さっさと寝ろ」 「わかってるよ。でも、眠れないんだもん……」 「なに、ホームシック?」 「違う!」 二人は互いを見つめて、思わず笑った。 「まあ、夏休みってことは、シンコンまでもう少しってことだな。ラストスパート、気合入れて頑張れよ」 「はーい!」 真夜中ということと、鷹緒に会えたという喜びで、沙織はハイテンションで答えた。そんな沙織に、鷹緒も笑う。 「ったく、夜中だっていうのに元気なやつだな。俺ももう寝るぞ」 「えー」 「俺は疲れてんの。おまえも明日早いんだろ? 早く寝ろよ」 「うん。鷹緒さんは、明日は何時?」 沙織が尋ねる。 「九時に事務所」 「九時か……ねえ、私は八時なの。一緒に行こうよ」 「一人で行け。それに俺は、おまえより一時間遅いんだよ」 「少しだけ早起きすればいいだけじゃない。いいでしょ? 私はシンデレラ候補なんだから」 「まったく……わかった、いいよ。どうせ仕事、山積みだし」 駄目もとで言った沙織の言葉に、少し嫌そうに、しかし優しく鷹緒が言った。そんな鷹緒に、沙織の興奮は更に高まる。 「嘘、嬉しい! 言ってみるものだね。じゃあ明日、朝ごはん作ってあげるよ。何時に起こせばいい?」 うるさいほど元気な沙織に、鷹緒は苦笑して返事をする。 「……七時半」 「オーケー。じゃあ、七時半に起こすね。おやすみなさい!」 俄然やる気の出た沙織は、そう言って立ち上がった。鷹緒も、自分の部屋へ繋がるドアに手をかける。 「……おやすみ。早く寝ろよ」 「はーい」 鷹緒はそのまま、部屋へと戻っていった。 沙織も部屋に戻ると、鷹緒と朝食や出勤を一緒に出来ることに、大きな幸せを感じていた。もっと近くにいたいと思う。 興奮した沙織は、そのまましばらく眠れぬ時を過ごした。
次の日。早くに目を覚ました沙織は、まだ静かな鷹緒の部屋のドアをそっと開いた。朝の光がカーテンの隙間から漏れているが、まだ部屋の中は薄暗いままだ。 まだ数えるほどしか入ったことのない鷹緒の部屋は、沙織にとって未知の世界であった。 改めて、部屋をぐるぐると見回してみる。生活感があまりないリビングだが、テーブルの上には無造作に、カメラや書類などが置かれている。 ふと時計を見ると、まだ七時前である。沙織は鷹緒の寝室には行かず、自分の部屋に戻って、キッチンへと向かった。そして朝食の準備をする。朝食が出来上がったのは、七時三十分ギリギリであった。 すると、リビングのドアが開いて鷹緒が入ってきた。 「わ! 鷹緒さん……なんだ。起きちゃったの?」 「もう三十分……」 まだ眠そうにしながら、鷹緒は時計を指差して、約束の時間が過ぎたことを示す。 「わかってる。朝食作ってたら、時間かかっちゃって……今、起こしに行こうと思ってたところ」 「あっそ……」 「おはよう」 「んー……」 鷹緒はソファにぐったりと座った。その姿は、すぐにでも眠ってしまいそうである。 「……眠い?」 「おかげさまで……」 沙織はそんな鷹緒の前に、朝食を並べた。パン食ではあるが、目玉焼きや数種類のおかずが乗っている。 「へえ。料理出来んの?」 感心したように、鷹緒が言った。 「見くびらないでよ。このくらいは、誰だって出来ます」 ムキになって沙織が答える。鷹緒は静かに笑う。 「そうか。俺、料理は全然駄目だから、この程度でも感動する」 鷹緒の言葉に、沙織は微笑んだ。 「さあ、めしあがれ」 「いただきます」 二人は、朝食を食べ始めた。
それから少しして、支度を終えた二人は、車で事務所へと向かっていった。 「わあ早い。やっぱり家から通うのとは違うよ……」 あっという間に着いたので、沙織がそう言った矢先、鷹緒は車を路肩につけて口を開く。 「沙織。ここで降りて」 「え、鷹緒さんは?」 「早く起きたから、今日の仕事始める。スタジオにいるって、ヒロか牧に伝えて」 「わかった」 「あと、今日は仕事早く終わると思うから、なんなら事務所で待ってろよ。どうせ帰るところ一緒なんだし」 鷹緒の言葉に、沙織は大きく頷いた。 「うん、待ってる!」 「ああ。じゃあな」 沙織を残して、鷹緒はそのまま去っていった。
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