「ありがとうございました。ごちそうさまでした」 車から降りるなり、沙織が言う。 「いえいえ。じゃあな」 相変わらず、鷹緒は淡々として答える。 「あ、うん……」 「なんだよ、その顔」 沙織の残念そうな顔に、首を傾げて鷹緒が尋ねる。沙織は首を振りながらも、説明しがたい寂しさに、目を泳がせるだけだ。 「だって……」 その時、向こうから人影が近付いてきた。そこには、息を切らした篤がいる。 「沙織……!」 「篤……」 思わぬ人物に、沙織は驚いた。だが状況を把握する間もなく、篤は怒ったように口を開いている。 「おまえ……なんなんだよ。用があるって、そいつのことなのか?」 ひどく怒っている様子の篤に、沙織は何が起こったのか、どうすればいいのかわからない。 「そいつって……鷹緒さんだよ、親戚の。それより、どうして篤がこんなところに……」 「表の店で時間潰してたんだ。最近会えなかったから、今日は会いたいと思って、すぐに出られるところにいた。そしたら、車に乗ったおまえが見えて、走って……何が用事なんだよ! 俺より、その男との約束が大事なのか?」 沙織に面と向かって、篤が怒鳴った。 「ち、違うよ! それは……」 「話中悪いけど、こんなところで喧嘩はやめろよ」 そこへ、車の窓から顔を出した鷹緒が言った。鷹緒のその言葉に、篤は更に逆上する。 「親戚だかなんだか知らねえけど、何も知らないくせに首突っ込んでくるなよ!」 鷹緒は静かに微笑むと、車のエンジンを切り、そのまま篤を見つめる。 「……ガキだなあ」 「なんだと?」 鷹緒の言葉に、篤の顔はどんどん逆上して赤くなっていく。だが鷹緒は、構わず言葉を続けた。 「ガキだって言ったんだ。大人はな、こんな住宅街の真ん中でそんな大声は出さないし、ましてや恋人の自宅前で、喧嘩なんか始めないんだよ」 そう言う鷹緒の顔は穏やかだが、目は真剣に篤を捉えている。篤は逆上したまま、開いた窓から鷹緒の襟元を掴んだ。 「なんだよ、あんた。そんなこと、あんたに言われる筋合いねえんだよ!」 そこに、いつもの明るくて優しい篤はいなかった。沙織はどうしていいのかわからずに、戸惑っている。 鷹緒は、尚も掴み掛かる篤の額を掴んで、引き離した。 「何すんだよ!」 「そっちが絡んできたんだろ?」 逆上したままの篤に反して、鷹緒は驚くほど冷静だった。篤と沙織にとっては、それが恐ろしくも見える。篤は鷹緒から離れると、沙織を睨みつけた。 「……もううんざりだ。俺がバイトしてる間に、おまえは浮気かよ! だったらこいつのところでも、どこでも行けよ! 俺は別れるからな」 篤はそう言うと、その場から去っていった。 「篤……!」 沙織は篤の背中を見つめたまま、それ以上何も言えない。 鷹緒は静かに息を吐くと、シートにもたれたまま沙織を見つめる。 「……家、入れよ」 その言葉に、沙織は首を振る。 「じゃあ、乗れ」 鷹緒はそう言うと、エンジンをかける。沙織も、静かに車へと乗り込んだ。
走り出した車の中で、二人は何も言わなかった。ただ沙織は、ショックで俯いたままだ。 しばらくすると、鷹緒の携帯電話が鳴った。鷹緒はハンズフリーの通話ボタンを押す。 「はい」 『広樹だけど。今、平気か?』 車内に広樹の声が響く。 「ああ、なに?」 『明日だけど、朝イチで事務所へ来てくれないか。俊二が休んでるせいで、仕事が片付いてないんだ』 広樹の言葉に、鷹緒は顔をしかめて口を開く。 「おいおい。明日は俺、久々の午前休みで……」 『わーかってるよ。その分の埋め合わせは、俊二が出てきたらするから』 「……オーケー。じゃあ、明日な」 『ああ悪い。あと、今日はちゃんと寝ろよ。おまえ、このところ寝てないんだから』 「言ってることがなってないぞ。じゃあな」 苦笑しながら、鷹緒は電話を切った。 「……ごめん、もういいよ。家に帰る」 横目に鷹緒を見ながら、沙織が言った。 「別に……早く帰れたから寝れるってわけじゃないし」 「……寝てないの?」 「いや、ちょこちょこ寝てるよ。このところ仕事が忙しかったから、ちょっとな」 鷹緒は軽く笑ってそう言うと、車を走らせる。 しばらくすると、沙織は寝てしまった。鷹緒はそれを確認すると、静かに沙織の自宅方面へと戻っていった。 「おい、着いたぞ」 鷹緒がそう言うと、沙織が目を覚ました。 「あ……家か」 「寝てちょっとは楽になったか?」 「……うん、ありがとう。いろいろ考えてみる」 沙織はそう言うと、笑って車を降りる。 「……何かあったら、事務所来いよ」 ぶっきらぼうだが、鷹緒の優しさが伝わる。 「ありがとう。じゃあ、遅くまでごめんなさい。しかも寝ちゃって……またね!」 そう言って沙織が家へ入ったのを見届けると、鷹緒はそのまま去っていった。 それから数週間、沙織は一度も事務所へ顔を出さなかった。
「鷹緒!」 朝の事務所でそう呼ぶ声があった。呼ばれていた鷹緒は、事務所のソファで眠っている。 「起きろよ、鷹緒」 鷹緒が目を覚ますと、そこには広樹がいる。 「ん、ヒロか。なんだよ、さっき寝たとこなのに……」 鷹緒は、眠たそうに起き上がった。 「寝かしてやりたいけど、出入り口から丸見えだ。ったく、おまえの仕事スペースは奥に用意してやってるのに、使わないんだから……」 ぶつぶつと、広樹が言う。 「……今、何時?」 眠い目を擦りながら、鷹緒が尋ねた。 「八時五分」 「ああ、まだ一時間しか寝てねえよ……」 「おまえなあ、たまには家に帰れよ」 「遠いんだよ」 「車で十分くらいだろ。それが遠いってんなら、目の前のマンションでも借りろよ」 「んー、面倒臭い」 「ほら、コーヒー。目覚ませ」 冷蔵庫の缶コーヒーを差し出しながら、広樹が言う。 「ああ……」 「で、仕事は?」 「出来たよ。さっきファックス流したから、もう終わりだ」 未だぼうっとした様子の鷹緒が、一点を見つめながらそう言った。まだ気だるそうに、何度もあくびを繰り返す。 「今日はおまえ、珍しく会議だけだったな。じゃあ、すぐに家帰って寝ろよ。今日はもういい……最近ろくに寝てないだろ?」 「いつものことだよ。ふあーあ」 鷹緒は大きなあくびをして、今にも眠りそうである。 「ったく、しょうがないなあ。仕事が忙しいのはわかるけど、自己管理しろよな」 「してるよ……」 「ったく、車のキー貸せよ。部屋まで送る」 呆れたようにしながらも、心配そうに広樹が言った。そんな広樹に、鷹緒は苦笑する。 「いいよ、別に」 「よくないよ。そんな状態じゃ、危なくて仕方ない」 「んー、じゃあ、電車で帰るよ」 やっと目が覚めてきた鷹緒は、伸びをしながらそう言った。 「おまえが電車? 嫌いなくせに」 「たまにはいいよ。車で十分、電車で五分だからな。じゃ、お言葉に甘えて帰るわ……」 「ああ、ちゃんと寝ろよ」 「んー」 鷹緒は立ち上がると、そのままふらふらと歩き出した。 「あ、鷹緒」 そこを、広樹が呼び止める。 「ん?」 「……例の件、進めるからな」 広樹の言葉に、鷹緒は小さく息を吐く。 「……ああ」 返事をすると、鷹緒は自宅へと帰っていった。
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