次の瞬間、少女が目を開けると、そこは少女の家だった。少女は夢を見ていたかのように、いつものように自分の部屋のベッドに横になっている。少女には、何が起こったのか分からなかった。 少女は静かに起き上がると、窓の外を見つめた。まだ薄暗い早朝である。 「……」 少女は着替えをすると、まだ眠った町へと飛び出していった。走りながら向かったのは、小高い丘の上にある、マンション群の団地だ。友達も何人か住んでいるので、幼い頃は、よくこの中庭で遊んでいた。 まだ薄暗い非常階段を、少女は駆け上がってゆく。最上階を過ぎ、屋上へ差し掛かった階段を、少女は急ぎ足で覗き込んだ。 少年がいるかと思った──。だがそこには、誰もいない。何もない。少女は静かに笑って、外を見つめた。もうここから、飛び降りる気にはなれなかった。薄暗い中で、遠く地面が見える。もう、何も考えられない。 少女は意気消沈して、ふと空を見上げた。するとそこには、綺麗な朝焼けが見える。朝の光に照らされた町が、徐々に目覚めてゆく。 丘の上にそびえる、大きな建物。そこの最上階から、少女は下を見下ろしていた。徐々に、町に人が溢れる。鳥のさえずりがこだまする。遠くで人の声が聞こえる。動き出した生活音が聞こえる。 「おはよう」 「ごはん、出来たよ」 「いってらっしゃい」 「いってきます」 「気をつけてね」 朝が明けきるのを、少女はただ呆然と眺めていた。
しばらくして、少女は静かに階段を下りていった。今はもう、死ぬ気もなかったが、生きる気力もなかった。ただ、何もしたくなかった。何も考えられなかった。 階段を下りると、少女は夢遊病者のように、中庭へと出て行く。見上げると、さっきまでいたはずの階段の最上階の部分が見える。 ふと、最上階の踊り場に、人影が見えた。少女はハッとして、階段へと近付いた。すると、マンションの清掃員だという事が分かる。少女は、中庭へと戻っていった。そしてそのまま、コンクリートの歩道を歩き、側にあったベンチに座る。 「……何してるんだろう……私……」 少女が呟く。 ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。その音に振り向くと、少女は何かに気付いて立ち上がった。少しずつ、それに近付いていく。 そこには、少年が持っていた花束と同じ花が、ひっそりと咲いていた。 「この花……」 改めて観察するように、少女がその花を見つめる。しかし、あまり見た事がない花だった。白い花びらが、下を向いて咲いている。 その時、突風が少女を襲った。思わず地面に手を着く。耳元で、風が鳴った。少女はそっとその花を摘むと、静かにその場を去っていった。
「何処に行ってたの!」 家に帰るなり、少女は母親に怒鳴られた。母親は、涙目になっている。その顔に、少女も涙ぐんだ。 「ごめんなさい……」 「もう!心配したじゃないの!」 母親は、そっと少女を抱きしめた。その温もりに、少女は涙を流し、もう一度言った。 「ごめんなさい……」 少女はそう言うと、母親に手を引かれ、家の中へと入っていった。 リビングに行くと、少女は椅子に座らされた。母親は手際良く、温かい紅茶を入れて、少女に差し出した。 「無事で良かった……」 独り言のように、母親が静かにそう言った。そんな母親を、少女が見上げる。すると母親は、優しい瞳で少女を見つめていた。 「その花、どうしたの?」 少女が握り締めている花を見て、母親が尋ねた。 「……ちょっと……綺麗だったから……」 少女が答える。 「スノードロップね。もうすぐ春なのね」 母親の言葉に、少女が顔を上げる。 「スノードロップ……?」 「そうよ。結構、この辺りでも、育ててる人多いでしょう」 少女は、母親を見つめた。母親は、尚も優しい瞳で少女を見つめている。少女は俯き、押し黙った。 「……学校に行きたくないなら、それでいいわよ」 その時、母親がそう言った。 「私達はね、あなたが生きていてさえくれれば、それでいいのよ」 母親の言葉に、少女は俯いた。胸を揺さぶるような、衝撃があった。しかし、何かが物足りない気がした。そんな風に思う自分が、不甲斐ないとも思った。母親の言葉は、暖かく感じた。幸せだと思った。しかし、少女は虚ろな瞳で、摘んできた花をただ見つめていた。心には、大きな穴が開いたように、凍りつくような寒さが少女を襲う。 「……お腹空いたでしょう?今、作るからね」 母親は、妙に気を使った様子で立ち上がり、台所へと向かっていった。少女はリビングの椅子に座りながら、ふとテレビをつける。しかし、それを眺めているだけで、何も考えてはいなかった。思い出す事といえば、妙にリアルだった夢。今でも思い出すと、胸の鼓動は早くなる。 少女はふと立ち上がると、握り締めていた白い花、スノードロップを持って、母親の元へ向かった。 「ああ、花瓶ね」 母親が、察して一輪差しの花瓶を差し出した。少女はそれを受け取ると、リビングのテーブルに花を飾った。まるでこの家の象徴のように、部屋の真ん中で、花は美しく輝いて見える。 「花壇一杯のスノードロップが咲きました」 その時、テレビからそんな声が聞こえ、少女はふとテレビを見つめた。 「下を向いている花びらが特徴的な、この花の名前はスノードロップ。別名、天使の贈り物とも呼ばれているこの花は、春の訪れを告げてくれる花です」 キャスターがそう言って、植物園の花壇を紹介している。 「このスノードロップ。アダムとイヴが楽園を追い出された時、二人が寒くて困っていた所に天使がやって来て、雪を花に変えたという謂れがあるそうなんですよ。この花を見ると、幸せになれるという事ですので、是非皆さんも見に来てくださいね」 テレビの画面には、花壇一杯のスノードロップが映し出されている。少女はただ、その光景を見つめていた。キャスターは、尚も花の紹介を続けている。 「ちなみに、このスノードロップの花言葉は“希望”。見ていると希望が溢れるような、そんな花に見えますよね。では、スタジオにお返しします」 キャスターの言葉を聞いて、少女はハッとした。希望……確か、夢の少年が言っていた。希望を見つけたのだと……。少女は、目の前の一輪の花を見つめた。少女の中に、何かが燃え始めた気がした。 「お母さん……」 突然、少女がそう呼んだ。母親は、出来上がったばかりの料理を差し出し、少女の顔を覗き込む。 「なあに?」 「……私、明日から、学校行くね……」 少女の言葉に、母親は驚いた。 「え……でも、無理しなくても……」 「ううん。行く。無理してでも……行かなきゃいけないような気がするんだ……」 そういう少女を、母親が涙ぐんで抱きしめた。少女の目からも、涙が溢れた。 少女は、何不自由なく育った。家庭も円満で、寂しい思いをした事もない。しかし、小学生の頃から、小さないじめが学校で行われていた。からかわれたり、仲間外れにされたり。日常で行われていた。 少女自身、その対象だった。成績もスポーツも並程度で、もたもたとした性格から、次第に同級生から疎まれる存在となっていたのを、少女自身が感じていた。無視される事はしょっちゅうだった。その頃からすでに、少女は不登校気味になっていた。 中学生になって、それもエスカレートした。言葉の暴力もあった。ただ、端から見れば、少女の悩みも小さな事なのかもしれない。それでも少女は、もう耐えられなかった。 「希望……」 少女が呟いた。母親は、意味が分からないながらも、少女を抱きしめる事を止めない。 母親は、少女から悩みを打ち明けられた事があった。しかし、正論を言うだけで、今は様子を見ていた。そんな中、少女が突然姿を消した事で、母親は不安に煽られていた。触れれば倒れそうなくらい、母親の姿は小さく見えた。 そんな母親の腕の中で、少女は生きようと決意していた。目を閉じれば、重くなる心を抱えている。一人になれば、不安で心が押し潰されそうになる。けれど少女は、もう一度生きてみようと思った。 それは、妙に残った夢のせい──。何かが少女の心の芯を、強く受け止め、支えようとしていた。
次の日。少女は不安げな母親が見送る中で、学校へと向かっていった。 「うわ、来たよ。ずっと来なきゃいいのに……」 ひそひそと、同級生の声が聞こえる。少女は無意識に、耳を塞ごうとする。けれど、心の中で何かが熱く燃え出した気がした。心の奥の炎は、少女が逃げようとする度に、どんどん熱くなってゆく。 「生きてたんだ」 その声に、少女の中で、何かがパチンと音を立て、少女を暖かく包んだ。 「生きてたよ……これからも、生きてくから」 少女が、静かにそう言った。揺るぎない声だった。 「はあ?あんた、何も分かってないわね。死んだ方が楽なのに」 そういう同級生も、少女に食って掛かる。 「……生きてて楽しい事も、沢山あるはずだから。それを知らずに、私、死ねない。いじめるなら勝手にやればいい。そんな事しか楽しみがないなら、私が相手してあげる……でも、私は死なないから。生きてくから」 少女はそう言って、微笑んだ。その顔は、自信に溢れた強い笑顔だった。 「……好きにすれば?」 対立していた同級生が、そう言って去ってゆく。 少女の中には、小さな白い花が咲いていた。希望という花が……。
その日から、少女は毎日学校へ行った。やがて、続いていたいじめもなくなってきた。強い少女には用がないといった様子で、対立していた同級生達は、大人しくしている。少女も次第に、笑顔を取り戻していった。いじめられる前の、少女に戻ったように──。
3年後。少女が少女らしい人生を取り戻した時、ある日少女は、あの丘の上のマンション群の団地へと向かっていった。手には、沢山のスノードロップの花が抱えられている。 いつか夢の中で、短い人生を終わりにしようと上った階段が、今日は生き生きとした、強い表情であった。 最上階の階段から、少女は町を見下ろす。移りゆく時間が心地良かった。陽に照らされた町。夕日が影を落とす町。月明かりに満ちる町。少女は時間を忘れて、その風景を見つめていた。 その時、誰かが階段を上ってくる気配を感じた。足音が聞こえる。少女は少し固まるが、そこから動く事が出来ず、その足音の主が来るのを待った。 すると、顔が見えた。中学生くらいだろうか。まだあどけなさが残る、見知らぬ少年だった。少年は、思い詰めた顔をしていながらも、決意に満ちた表情だ。少年はその場に立ち止まったまま、動こうとしない。少女は、じっとその少年を見つめていた。 やがて少女は、持っていた花束を解き、その場から外へと投げ落とした。いつか見た、忘れられぬあの少年が見せた行為が、今の少女には分かる。希望という名の白い花が、地面へ向かって落ちてゆく。 これは、あの時死んだ自分へのはなむけ。生まれ変わった自分への証。そして二度と、昔の自分と同じような人が現れないように祈る、願い。 落ちてゆく花を見つめていたのは、少女だけではない。ここにいる、名も知らぬ少年もまた、ただ黙って見ていた。 「……君も死ぬ気なの?」 やがて、少女がそう尋ねた。その問い掛けに、少年は静かに頷く。そう、これはいつかの……現実。 「……死んだら駄目だよ。あなたに死ぬ権利なんかない」 少女が言った。少女の言葉に、少年は口を結び、静かに少女を睨む。 「あるよ」 少年が、初めて口を利いた。 「ないよ」 「ある!」 二人は、睨み合いになった。 「……いじめられてるんだ……もう生きたくない……希望なんて、何にも見えない……」 やがて、少年がそう言った。少年はもう一度、遠い地面を見つめた。その瞳には、落ちた白い花、スノードロップが微かに闇夜に浮かんで見える。 「……私もいじめの加害者よ。結局、何も出来なかったのだから……だけど、私は見つける事が出来たんだ」 少女の言葉の続きを求めて、少年は少女を見つめた。少女が、笑った。 「希望……を」 その時、突風が吹き抜けた。ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。
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