もう、いやだ。終わりにしよう。ここですべて、終わりにしよう──。
ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。月明かりが眩しいほどに輝く夜、小高い丘の上にあるマンション群の団地が、不気味に浮かび上がる。その団地の非常階段を、たった一人、孤独な少女が、一歩一歩、上っていく。 中学生くらいだろうか。まだあどけなさが残る少女の顔は、険しかった。だが、決意に満ちた表情で、淡々と階段を上っていく。走馬灯のように、人々の声がフラッシュバックする。 「うざいんだよ」 「無視しようぜ、無視」 「いじめ?自意識過剰じゃないの?」 「ちゃんと、学校行きなさい」 「死ね!」 突然、少女は立ち止まり、耳を塞いだ。ドクドクと、心臓が異常なまでの音をさせる。 「…………」 少女は意を決すると、また階段を上り始めた。丘の上のマンション団地は、小さな町の象徴で、町の一番高い所に聳えている。13階建てのその建物は、不気味なまでに静けさを見せていた。 13階を越えて、屋上に差し掛かろうという所で、少女はハッとした。 「……!」 少年がいた。屋上へ通じる鉄格子のドアは、事故防止の為に固く閉ざされている。そのドアの前に、一人の少年が、花束を抱えて立っていた。 少女は凍りついた。先客がいるとは思わなかったのだ。少年もただ黙って、少女を見据えている。 やがて少年は、持っていた花束を解き、その場から外へと投げ落とした。白い花びらを付けた花が、地面へ向かって落ちてゆく。風に煽られ、広がり落ちる。少女はそれを、ただ黙って見ている事しか出来なかった。 「……君も死ぬ気なの?」 すると、少年がそう言った。少女は静かに頷いた。 「やめた方がいい」 少年の言葉に、少女は俯いた。静かな拒否が、少女から感じられる。 「……死んだら駄目だ。君に死ぬ権利なんかない」 続けて言った少年の言葉に、少女は口を結び、静かに少年を睨んだ。 「あるわ」 静かに、少女が言った。 「ない」 少年が、きっぱりと否定する。 「あるわ!」 今度は少女が、怒鳴るように言う。 「ある!死ぬ権利はあるわよ!私の命は、私のものだもん!」 少女の叫びに似た声が、風と共に非常階段へと反響する。少年も、少し睨むように少女を見つめ、少女の腕を掴んだ。 「ないよ」 少年が言った。 「未成年で、ましてや義務教育が終わってない君の命は、君の保護者のものだ。君は生きなくちゃならない。生きる権利は与えられていても、死ぬ権利はない」 少年の言葉に、少女は少年の手を振り払った。涙が出そうだった。少女は静かに、少年を見つめた。服装からして、高校生か大学生くらいだろうか。 「……何なの?あんた……」 少女の問い掛けに、少年は苦笑いするだけだ。 「あんたは、こんな場所へ何の用なのよ?」 苛立つように、少女が尋ねる。この少年さえいなければ、躊躇うことなくここから飛び降り、死ねるはずだった。それを邪魔され、少女はやり場のない怒りを、少年にぶつける。 「……命日なんだ。僕の……友達の……」 やがて、少年がそう言った。少年は、少女を見つめる。雲の多い静かな月明かりが、少年を逆光に照らし出す。少女から見える少年の顔は真っ黒になり、その姿の輪郭だけが浮き彫りになった。少女は、この状況が、少し怖くなった。 「……ここで、人が死んだ。丁度、3年前に、この場所から……」 少女はゾクッとした。まるで少年は、生きている人間とは思えなかった。薄暗さに血の気は見えず、静かで穏やかな口調は、吹き抜ける風と共に冷たく響く。 「……僕は、その子の幼馴染みだった」 少年が、静かにそう言った。 「ずっと一緒だった。喧嘩しても何しても、双子同然に、ずっと一緒だった。それなのに……」 少年は、階段から外へと身を乗り出した。遥か離れた地面は、真っ暗だった。誰もいない中庭の、コンクリートの歩道が、微かに月明かりに照らされている。 少女も、地面を見つめた。随分高い。ここから飛び降りれば、間違いなく死ねるだろう。明かりもない中庭には、人の気配もない。 少女も、外へと身を乗り出した。強い風が吹き抜ける。その風に煽られて落ちるのも良い気がした。 「……私はずっといじめられてた……勉強もスポーツも人並み程度で、動きもトロくて、うざいって……」 少女はそう言うと、空を見上げた。雲が多いが、月明かりだけは相変わらず、恐ろしい程に光っている。 「友達がいない訳じゃなかった。身近な人には軽く相談してみた。だけど本当は、家族と本音を話し合える関係もない。先生も上辺だけで、結局何もしてくれなかった……」 「……だから、死ぬ気でここに来たの?」 少年の問い掛けに、少女は頷いた。 「……死ねば楽になれるとでも思ってるの?家族や友達が、悲しむとは思わないの?」 また少年が言った。少女もまた頷いた。 「少なくとも、今よりはきっと楽になれる……誰にもいじめられたり、蔑まれたり、疎まれたりしない。それに……こんな狂った世の中で、生きる意味なんかないよ」 その時、物凄い爆音が轟いた。見ると、ジェット機が上空を通り過ぎてゆく。 「……どうせ死ぬなら、復讐してから死ねばいいのに……」 静かに、少年が言った。少女は、少年を見つめる。 「いじめた奴らを殺せばいいじゃん。学校に火でも付ければいいじゃん。国会議事堂に突っ込めばいいじゃん。家族と殴り合ってまで、話し合えばいいじゃん。どうして自分だけ、死ぬ事を考えるんだよ!」 初めて、少年の顔が歪んで見えた。少女は、首を振った。 「そんな事……出来る訳ない。私が死ねば、それでいいじゃない……」 少女が言った。 「……そんな事じゃ、いじめた奴らの思うツボじゃん」 少年はそう言うと、静かに階段に腰を掛けた。少女はそのまま、月を見つめていた。 「……でも……それでも……少なくとも、傷は残していけると思う……」 やっとの思いで、少女が言った。 「……いじめた子が、私を殺したって思ってくれればそれでいい。大人だって、私をどうしようも出来ずに殺したって、そう思えばそれでいい。次の私が出ないような社会になればいい……」 「……ならねえよ」 少女の言葉に、少年が突き返して言う。 「君が死んでも、いじめた奴らは明日には違う奴をいじめるだろう。大人だって、結局何も認めたくなくて、何も出来ないんだ。君が死んでも、何もならない」 「じゃあ、どうしろって言うのよ!」 少女が叫んだ。涙が、止め処なく溢れてくる。 「もう生きたくない……希望なんて、何にも見えない……」 少年は立ち上がると、もう一度、遠い地面を見つめた。 「……僕の友達が死んだ時、きちんとした遺書は見つからなくて、原因不明の突発的な自殺として判断された。僕らが、いじめがあったと証言しても、証拠不十分で結局それは反映されなかった。僕も死にたくなった。心が押し潰されそうだった。だから僕も、ここから飛び降りようと思った」 少年の言葉に、少女は少年を見つめた。思わず、少年の腕を掴んだ。少年はそれを見て、少女に苦しそうに微笑み掛ける。 「でも、出来なかった……僕には、死ぬなんて勇気、なかったんだ……」 少年の目から、涙が溢れ出た。 「僕は友達を救えなかった。死ぬ事も出来なかった。苦しくてたまらないのに……今もこうして、のうのうと生きてる……」 耳鳴りのように、風が唸る。その中で、少年の声が聞こえた。 「……僕もいじめの加害者だ。結局、何も出来なかったのだから……だけど、僕は見つける事が出来たんだ」 少年の言葉の続きを求めて、少女は少年を見つめた。少年が、笑った。 「希望……を」 その時、突風が吹き抜けた。風に吹かれて、まるでそこから落ちてしまったかのような感覚に襲われる。少女は思わず、目を瞑った。
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